佐賀の出版元 出門堂

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2008年12月12日

『よみかき論語』が好評です

新刊『よみかき論語』が好評です。
論語の原文の表記が新鮮だと評されますが、本書の原文はすべて、熟練の書家が初唐の楷書に倣って揮毫しています。
私たちは大量の活字の中で生活していますが、もともと文字の美意識は毛筆で書かれた書の歴史に基づいています。
美しい楷書体のテキストで「よみ」「かき」の素養を育みたいものです。
(X)  


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2008年12月08日

西郷隆盛と副島種臣

小松帯刀についての紹介が意外にも好評で、薩摩を中心とした幕末維新に対する関心の高さを感じます。そこで小松帯刀につづいて、西郷隆盛や大久保利通と佐賀についてのエピソードをひとつ紹介します。
以下は、副島種臣の西郷についての回想から。

初まりは説の合うこともあり、合わぬこともあっただろうがね。あの人の死に至る時、拙者に遺言をされたで。死ぬ三日前に西郷に仕えて居った、薩摩の岡部と云う者に、「最早や自分は討死をするから出で行け」と云うて、それを出さるる時に、「副島が支那から帰って逢えたならば、謹んで死するなかれ」と言われた。その趣意を考えるに重もに荒いことを最早するなと言われたと見ゆるて。それが最後の遺言であった。その岡部と鈴木某と二人連れで遺言を通じた。これは全く征韓の頃から外の朋友を離れ、拙者とは時々手紙の往復もし、それも人の往来位で、薩摩人の往来で、委托して物言うたことも沢山ある。その頃からその遺言を拙者の為めに発するに至られたと見ゆるて。およそ役人と云う者はどんな朋友でも、説の合う時と合わぬ時とあるものだ。その時はやはり争論をする。もっとも征韓論までは拙者は大久保とが一番懇意にあったようにある。ただ征韓の一条だけが、彼と見込の違ったと云うもので。そこで、役人の懇意は、あるいは討論、あるいは異論と云うことは往々ある。ある度毎に見解の衝突は言うまでもない話だ。
(島善高編『副島種臣全集2』慧文社より〔全体を新字新仮名づかいに、一部の漢字表記の接続詞を平仮名に修正して紹介しました)

大久保利通がさまざまな面で副島種臣を頼りにしたことは有名ですが、征韓論争以降は西郷と交遊が深かったことがわかる談話です。南洲墓地にある鹿児島改葬碑が副島の揮毫であることは、こうした副島と西郷隆盛(南洲)との関係によるものだと思われます。大久保と西郷、時期によりこの二人が頼りにしたのが副島種臣でした。
幕末維新に活躍したのは薩摩ばかりではありません。薩長土肥の肥前、つまり佐賀の視点から描かれた幕末維新のわかりやすいガイドとして、大変好評の一冊、福岡博著『佐賀の幕末維新 八賢伝』出門堂をぜひご一読ください。(X)
  


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2008年11月20日

「よみかき論語」を出版します

この11月末に「よみかき論語」を出版します。
以下、その内容を紹介します。

「よみ」「かき」「そろばん」は、かつての日本で不可欠の基本的な素養とされていました。
本書は、「よみ」と「かき」を一冊で同時に学ぶ本格的で簡便な「論語テキスト」です。
「よみ」とは「論語の素読」に代表されます。
訓読体を声に出して諳誦することにより、たくさんの言葉や、美しい文章の基礎、
そして倫理観や人生観をも学ぶ目的で、「よみ」は重視されたのです。
「かき」とは手習い、つまり習字のことです。
毛筆で文字をおぼえながら、筆づかいや文字の美しさを身につけました。
かなも漢字も毛筆で書くことを前提にできているため、書写は私たちの
すべての美意識の原点ともいえるのです。

間もなく出門堂のサイトで詳しく紹介します。  


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2008年11月14日

佐賀藩研究論攷 池田史郎著作集

佐賀藩研究論攷 池田史郎著作集』を発刊しました。
佐賀藩の基礎研究として藩政や有田焼、葉隠など多方面に充実した1冊です。
詳しくは小社ホームページでご覧ください。
  


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2008年10月11日

小松帯刀について

新聞広告で瀬野富吉『幻の宰相 小松帯刀伝』が宮帯出版社から復刊されたことを知りました。
この本はもともと昭和60年に発行されたもので、入手がむずかしい本でした。
私がこの本を知ったのは、今年亡くなった草森紳一氏から、「小松帯刀について書かれた本が出ているはずだが、手に入れ損ねている」と聞いたことからです。いろいろたどって瀬野氏のご遺族から上下2冊を2セット譲ってもらい、1セットを草森氏にお送りしました。
今回の復刊は、NHK大河ドラマによって小松帯刀に注目が集まったことによるだろうと思われます。しかし、この本の背後には、瀬野氏や小松帯刀顕彰会、大河ドラマとは無縁の郷土の人々の、おそらく多大なご苦労があったことを想像します。
序文の末尾で原口泉氏(鹿児島大学助教授〈当時〉)はこのように語っておられます。

私達は、小松を育んだ薩摩の風土をあらためて見直すことから、将来への方向性を探っていなければならない。

重い言葉です。
さて、佐賀の版元である出門堂から紹介したい記事があります。小松帯刀という人物について大隈重信が語った言葉です。

 小松はわたしたちの先輩であると共に友達でもあった。見かけは堂々として口も達者であり、少しは学識もあって、気性も卑屈ではなかった。その上薩摩藩の名家として、世間からは非常に信頼されていたから、外国の副知官事としては最も適任者であった。好事魔が多く、桂や蘭は折れ易いと云うことがある。不幸にも天は秀才に幸いせず、小松は副知官事に任じられる前から、腎臓病にかかり、職にあること数ヵ月で臥床した。内治、外交、国家の将来について、身体中に満ちあふれた素晴らしい計画を持ちながら、あきらめ切れぬ涙を呑んで死んでしまったのである。ああ、悲しいことではないか。そしてまた国家や国民の不幸でもないか。そうして彼のあとを継いだものは誰であったか。小松が推薦した人は誰であったか。思うに、その当時は薩摩と云い、長州といい、いずれも戦勝の余勢にのって、その権力は非常に盛んであった。従って政府の官吏や、地方の役人の中にも薩長の出身者が多かった。外交官だけが除けもの扱いにはされていなかった。寺島陶蔵(宗則)、町田民部(久成)、五代才助(友厚)は薩摩藩の人で外国官判事であった。長州藩の井上聞多(馨)、土佐藩の後藤象二郎(元曄)も同じ職であった。これらの人たちは、多くは小松の推薦でその地位を占めたもので、いずれもわたしの先輩であった。小松が腎臓病に罹ってもう一度起ち上がることが出来ないのを知って、その後任者を推薦しようとした時、これらの人たちから引き抜くのは、必ずしも私心や情実によるとは云えないだろう。ところが彼は終にこれらの人々を引き抜かず、この大隈重信を推薦しようとは、わたしも他人もみな予想外のことであった。
 わたしは小松と古くから交わっていたものではない。維新の前後、わずか三、四回会っただけである。わたしは別にすぐれた外交上の学識や技能を持っているわけでもない。まして熟達した経験や、世に知られた功績を持つものでもない。もし有るとしたなら、横浜と江戸の間で、横須賀の回復や、軍艦兵器の受取りに走り歩き、また長崎の耶蘇教問題について談判に当たったなどで、いささか経験し、功績を得たにすぎなかった。ただこれだけであった。だからこれだけで、薩長の大変な権勢をしのぎ、先輩の人たちをさしおいて、直ちに小松の後をつぐ値打がどうしてあるだろうか。それなのに小松は他のものを差しおいてわたしを推薦し、当時の政府は、その忠実な意見をうけ入れて、小松の死後すぐにわたしを外国官の副知官事に任命するようになった。誰も意外だと思うたことだろう。今から考えて見ると、小松は事を処理する時に公平を旨としていた。公に対して一片の私心も挟まなかったのである。「同郷がなんだ、縁故がなんだ。藩の係り合いもどうでもよろしい。情実など取るに足りない、ただ才能があるものを用い、適任者を選ぶだけだ。」と。これが小松が公に処して人を採用する本心であった。当時世間の人たちが凡て私欲をあさり、私利に走る時、このような名士がいたのだから、人々はみなこれを尊敬したのである。国家の重席に連なり、重要な職務を行うたもので、小松のように公平無私の心を持って天下に臨み、政務をとったならば、官民の衝突は今のように激しくならず、かつ世の志士や道徳家が最も非難した、藩の関係やその情実による弊害は起こらず、維新の改革と、大業の進歩は一段と見るべきものがあり、明治維新の歴史は一層光を放ったであろう。惜しいかな、小松は早く逝いてそのあとを追うものがなく、藩閥とか情実とかいう汚らわしい言葉が潔白な世間の人たちの口から出て、已むを得ず時の政府を攻撃するようになったのである。
 わたしがこう云うのは、小松が推薦してくれた恩に対して礼を云うための私情から出たものではない。本当に公平で私する心がないことが、ハッキリしているからである。歴史を読み、むかしを想い、ただ一すじにこれを思うごとに、限りない感慨が胸中を行き来するのである。
(『大隈伯昔日譚』早大出版部)

 長くなりましたが、大隈の個人的な見解ながら、小松帯刀という人物の魅力に触れたような気になり、すがすがしい気持ちになります。(X)
  


Posted by 出門堂 at 11:00 | Comments(2) | 今日のひとこと

 

2008年10月09日

秋の展覧会

10月3日から唐津市にある佐賀県立名護屋城博物館で寄贈記念展「洪浩然 忍・忘れず」が開催されています。
この、「洪浩然」という人は小社発行の『佐賀読本』(金子信二著)にも登場しています。豊臣秀吉の朝鮮出兵で鍋島直茂らによって12、13歳で朝鮮から日本へ連れてこられた洪浩然ですが、その生涯のほとんどを佐賀で過ごしています。

洪浩然は、直茂の子の勝茂とともに育てられ、やがて京都で学ぶことを許され、佐賀藩の儒者となって多くの影響をのこしました。70歳のとき、洪浩然は帰国を願い出て、いったんは許されたのですが、洪浩然を惜しむ勝茂によって許可は取り消され、結局、浩然は帰国の念願を果たすことはできませんでした。
(『佐賀読本』より)

洪浩然の願いは叶わず日本で余生を送るのですが、共に育った勝茂が亡くなると自分も後を追って殉死してしまいます。

今度の展覧会では洪浩然の書も展示されており、「こぶ浩然」とよばれた、その印象的な書は書家の石川九楊氏が『蒼海副島種臣書』(二玄社)のなかで、明治時代の政治家であり、書家でもある副島種臣も影響をうけたのではないかと推測しています。
また、『早すぎた幕府御儒者の外交論古賀精里・侗庵』のなかで洪家の跡継ぎとして佐賀藩の儒学者、古賀精里の二男(洪晋城)を養子にむかえたとあります。この古賀精里の長男は幕末佐賀藩の改革の中心にいた古賀穀堂であり、三男は父親の精里とともに江戸の昌平坂学問所の教授となった古賀侗庵です。


(M)
  


Posted by 出門堂 at 09:00 | Comments(0) | 今日のひとこと

 

2008年09月06日

「あ~れ~~」にも技術が要る?!

制作中の本の取材で、ある着付けの先生を訪ねたときのこと。

時代劇などで目にする、女性が着物の帯をほどかれる場面。実はそのシーンには着付けの技術が関係しているそうです。最近の着付け方法は様々な留め具を使用して何本もの紐でしばり、着崩れしないように保っているため、一度でほどくことはできないそうです。その先生の着付けは、一切それらの留め具を使用しません。ですので、帯をほどく時は「あ~れ~~」状態でとけるそうです。しかし、着崩れしにくいながらも圧迫感がないので長く着物を着ていられるそうです。本来の着物文化のうえではあたりまえのことだったのかもしれません。

何気なく見ていた時代劇にも日本の文化の巧みな技が隠されていたのですね。
ただし、女性が人前で帯をほどくのは貞節がないことを意味するため絶対にしないでほしいとおっしゃっていました。
(M)
  


Posted by 出門堂 at 10:00 | Comments(1) | 編集見習い日記

 

2008年09月05日

イトモロコ(佐賀の淡水魚)

イトモロコ。
あまり大きくならないようで、写真のものも5㎝ぐらいです。
いつも水槽の下の方にいて、
他の種類とちがって、
餌を求めて水面に浮上する動きはほとんど見せません。
背中に黒い模様があるので、すぐにイトモロコと知れます。
からだの流線型が最も美しいと思っています。

(X)  


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2008年09月02日

オイカワの雄

オイカワの雄。
オイカワを食した感想は、「うまい」「まずい」と両極を耳にします。
私も10㎝弱のオイカワを天ぷらにしたことがありますが、
けっこうおいしく食べました。
雄は繁殖期になると縞模様が青みを増し、
ひれの先に赤い色がさし、
大変派手な姿になります。
もっと大きく雄壮な雄を獲ったことがありますが、
いずれもすごいジャンプ力で、
バケツから川へ帰っていきました。

(X)  


Posted by 出門堂 at 10:30 | Comments(2) | 今日のおすすめ

 

2008年09月01日

第一級の知識人 古賀精里・侗庵

8月23日付の佐賀新聞紙上で、小社の新刊『早すぎた幕府御儒者の外交論 古賀精里・侗庵』(梅澤秀夫著)が紹介されました。

記事には次のようにあります。
高校の歴史教科書にもほとんど出ることがない二人だが、著者の梅澤教授は「歴史をきちんと理解するためには、昔の人の精神世界に踏み込んだ思想史の分野を知ることが必要」と、執筆の動機をあとがきで述べている。偉業を後世に語り継ぐ役割だけでなく、日本人の思想を理解するうえで重要な一冊となっている。

戦前までは、江戸時代屈指の知識人として著名であった古賀精里・侗庵父子ですが、この半世紀ほどの間に教科書に載っても小さく扱われる程度となり、その名を知る人もすっかり減ってしまったようです。半世紀という時間にどのような変化が起こっているのでしょう。

古賀精里・侗庵は、二代にわたり江戸の昌平坂学問所で教授を務めた佐賀藩出身の儒学者です。ペリー来航以降、日本における海外への意識が高まったことは知られていますが、その半世紀も前に日本にとって外交や海防がいかに重要であるかということを説いています。すでにこのころ対ロシア政策などを具体的に論じています。

「半世紀」とは、私たちを取り巻く環境を大きく変えうる歳月かもしれません。それでも彼らの考えたことを現在こうして知ることができるのは、先人たちがそれを語り継ぎ、遺してきたことの証しでもあります。

この『早すぎた幕府御儒者の外交論 古賀精里・侗庵』をはじめとして、肥前佐賀文庫では長期のビジョンで読者の方々に問題提起ができればと希っております。
(A子)
  


Posted by 出門堂 at 15:45 | Comments(0) | 今日のひとこと

 

2008年08月28日

ヌマムツ

ヌマムツ。

先日掲載したカワムツとそっくりですが、
あごに赤いぶつぶつがあるのが特徴です。
写真のヌマムツは15㎝以上ありますが、
これを網ですくったときには、なにごとかと思うほどの手ごたえがありました。
(X)
  


Posted by 出門堂 at 10:30 | Comments(0) | 今日のひとこと

 

2008年08月13日

帰省

この時期、ふるさとで過ごす人も多いことと思います。佐賀へ帰省される方へ読んでいただきたい一冊をご紹介します。
「にゃーごとあろう」父の後ろ姿  小山内富子著
なつかしい佐賀の風景とともに、昭和初期の人々のつながりとあたたかさが満載です。

―― 「魚の哲学」より ――
「昔ゃない、我がん家の川端に魚のどっさい泳ぎよっとば見つくっきい、竿竹ば持ってきて、飯(めし)盗人(ぬすっと)、早(は)よあっち行けちゅうて、魚ば追っ払いよったちゅうばい。……」

「なし、魚の飯盗人ね」

「魚ば菜(しゃあ)に飯ば食(た)ぶっき、美味(うま)か魚につられて、飯ばどっさい食(く)うてしまうけんたい」

「そんない、ご飯の代わりに魚ばどっさい食べたらよかやんね。魚は栄養価も高っかし、堀から、只で取りゆもん。……」

「栄養はあっばってん、魚ばっかいじゃあ、働く体力はできんたい。それにない、人間、贅沢な味ば知ってしまうぎ、もとにゃ戻りにくかたい。第一、只で手に入っとも、労働者にとっちゃ禍(わざわい)の種(たね)たい。只の味ば覚えてしまうぎ、働くとが阿呆らしゅうなって、勤労意欲の削(そ)がるっちゅーてない。そいが、家の切り盛りば受け持っ姑婆ちゃんたちの生活哲学じゃったったい」
つつましく、そしてたくましく生きていた昔の人から学ぶことは多いです。
ところで、この美味しい魚は何だったんでしょうね?

出門堂の本は佐賀県内の書店でも販売しています。

(M)

  


Posted by 出門堂 at 17:49 | Comments(0) | 今日のおすすめ

 

2008年08月10日

佐賀の淡水魚(カワムツ)

佐賀東部の川でつかまえたカワムツ。
ヌマムツは顎のあたりに赤いブツブツがありますが、それ以外はそっくりです。
わたしがアミをしかけるポイントには両方が生息しており、
15センチほどのヌマムツと10センチのカワムツが同時にアミにかかったこともあります。

近日ヌマムツの写真も掲載します。
(X)  


Posted by 出門堂 at 10:00 | Comments(1) | 取材日記

 

2008年08月08日

「大人はしっきゃ親代わりたい」

「にゃーごとあろう」父の後ろ姿』の名言集。今回は、「大人はしっきゃ親代わりたい」からご紹介します。
世間の大人は、しっきゃ子供に責任ば持たんばならん。親代わりのようなもんじゃっけん

近所の小父さんが夜道を家まで送ってくれたと話したときに、父が少女に返した言葉です。わかってはいるけれども、なかなか言える言葉ではありません。心に刻んでおこうと強く思いました。
(A子)
  


Posted by 出門堂 at 09:51 | Comments(0) | 今日のひとこと

 

2008年08月05日

光の雨(花火)


8月3日陸上自衛隊目達原駐屯地での花火大会。
光の具合でたまたまおもしろく撮れたので紹介します。
(X)  


Posted by 出門堂 at 11:30 | Comments(0) | 今日のおすすめ

 

2008年08月02日

佐賀の乱最後の激戦地「境原」の白蓮

8月2日朝の、佐賀県千代田町境原の蓮です。
「境原」という地名は佐賀の乱の最後の激戦地として有名です。
ありきたりですが、
夏草や兵どもが夢のあと(芭蕉)

を想起します。
「佐賀の乱」としましたが、近年「佐賀戦争」と呼ぶべきと主張する人たちもいます。
なにかのために命を賭した人々がしのばれるこの地の蓮のたたずまいの前に、
ただ静かに立っていることしかできませんでした。


(X)  


Posted by 出門堂 at 16:30 | Comments(0) | 今日のひとこと

 

2008年08月01日

ヨシノボリ

ヨシノボリ。
佐賀県東部の川でつかまえたヨシノボリです。
ちょっとドジョウにもにていますが、ヒゲはありません。
佐賀の川にはたくさんいますが、
川底の色となじんでいるのでなかなか見つかりません。
おなかに吸盤のようなものがあり、
水槽の壁にはりついた状態で水面まで上っていきます。
愉快でかわいらしい魚です。

(X)  


Posted by 出門堂 at 09:47 | Comments(0) | 取材日記

 

2008年07月29日

楢林宗建によるわが国初の牛痘接種の実施日が特定される

小社『わが国はじめての牛痘種痘』の著者である深瀬泰旦先生から、お手紙をいただきました。その中で、楢林宗建の日本はじめての接種日を特定するにあたり、一定以上の信憑性をもった報告があるとされています。深瀬先生のご諒解を得て、以下紹介いたします。


ピッツバーク大学名誉教授(歴史学)アン・ジャネッタさんの著書*によりますと、1849年8月14日の「蘭館日記」に

近頃バタビアからもたらされた牛痘物質をもちいて、今日モーニッケが3人の日本の子どもに接種した。長崎奉行はモーニッケから指導をうけるために、若い日本人医師に毎日出島に通うことを許可した。

との記事があるとのことです。8月14日を旧暦になおしますと(嘉永2年)6月26日にあたります。ジャネッタさんもこの日を接種日としています。

 また建三郎の年齢ですが、さきの著書でも5ヶ月児(呉秀三)、10ヶ月児(「楢林家系譜」)、15ヶ月児(古賀十二郎)などいろいろな説があるとしてしまいましたが、孫にあたる楢林基成氏によりますと**、祖父建三郎の大正元年12月18日に撮影した写真に「63歳9ヶ月」と書かれているとのことですので、これから逆算すると「嘉永2年3月生まれ」になると断定しています。嘉永2年生まれであることは間違いありませんが、誕生日は何月何日かが不明ですので、この逆算がすぐに正しいとはいえないとおもいます――この点につきましてはさらなる考察が必要かと存じます――ので、「3ヶ月乃至4ヶ月の乳児」といっておいた方がよろしかろうと思っています。

*Ann Jannetta: The Vaccinators Smallpox, Medical Knowledge, and the Opening of Japan. Stanford University Press. Stanford, California 2007〔132ページ〕
**楢林基成『八十路坂』2007年〔18ページ〕


ということです。この接種の後、全国各地の蘭医を中心にいっきに牛痘接種が広がっていきます。
なお、日本最初の種痘についてはさまざまな説があるようです。『わが国はじめての牛痘種痘』では、「楢林宗建が嘉永二年におこなった牛痘接種は、その成功が今日にいたる牛痘接種に継続しているという事実によって、本邦初の牛痘接種といってよいであろう」としめくくられています。
天然痘という、当時の驚異であった病の根絶のために苦心した多くの人々に敬意を表します。(X)  


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2008年07月28日

肥前佐賀文庫003 古賀精里・侗庵が佐賀新聞有明抄に

7月28日の佐賀新聞「有明抄」で梅澤秀夫著『早すぎた幕府御儒者の外交論 古賀精里・侗庵』(出門堂)が取り上げられました。
ことし第一陣となる北方領土墓参団から話が起こされています。そして、

江戸時代、この北方領土へのロシアの脅威にどう対処するかを幕府に進言したのが、佐賀出身の朱子学者古賀精里・侗庵親子だった。清泉女子大学教授梅澤秀夫さんが書いた「早すぎた幕府御儒者の外交論 古賀精里・侗庵」(出門堂)を読むと、二人の先見性がよく分かる。

と紹介されています。また、

十八世紀末から十九世紀初頭にかけて、ロシアはシベリアを征服し、カムチャッカ半島から千島列島へ南下。レザノフが長崎に来て開港を迫った。精里はロシアの要求に対する想定問答集を作っている。それは和親と威嚇を両にらみした、知略に富んだものだった。

何が何でも外国人を実力排斥しようとする感情論が高まる中、冷静で合理的なものの見方をした古賀親子の存在をあらためて見直したい。

と述べられています。

なぜいま、古賀精里・侗庵父子について出版すべきなのか、という小社の企図の一端を代弁していただいたようにさえ思えました。(X)
  


Posted by 出門堂 at 14:00 | Comments(0) | 今日のひとこと

 

2008年07月24日

支え合うことの大切さ(佐賀新聞)

7月20日付の佐賀新聞「マイブック」のコーナーで『おもやいどがしこでん』(古賀悦子著)がとりあげられました。佐賀大学に通う白石恵里さんは、
進路や作品制作で悩むことはあったけど、先輩の励ましや、先生の後押しを受け、美協展で一席を取ることができた。

と、自身がまわりの人たちに支えられてきた経験を振り返ります。
また、
自分では表現できない鮮やかな色使い、独自の世界観に引かれこの絵本を手に取った。・・・・・・支え合うことの大切さと人への思いやり。この絵本のテーマを忘れず、見る人から喜んでもらえる作品をつくり続けたい。

と、これからへ向けた力強い思いが語られています。

神埼ライオンズクラブ40周年記念出版『おもやいどがしこでん』、ぜひご一読下さい。
(A子)
  


Posted by 出門堂 at 17:24 | Comments(0) | 今日のおすすめ

 

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