佐賀の出版元 出門堂

2008年06月02日

枝吉神陽が会った人々7 玉蟲拙斎

 弘化3年(1846)4月15日に枝吉神陽一行が玉蟲拙斎の家に泊まったことが『十文字家文書』にあるそうです。
 函館の山形道文先生(函館漢詩文化会会長)が北海道新聞に5回にわたるインタビュー構成で、堀利煕を中心に「堀奉行と箱館の侍たち」という記事が掲載され、その第4回目(2008年3月27日)に玉蟲拙斎について語っておられます。山形先生の了解を得て紹介いたします。

 箱館八景扇面図の侍はあと二人。姫路藩出身の菅野潔は、昌平坂学問所の塾長に抜てきされるほどの秀才で、蝦夷地の紀行文「北遊乗」を記しました。扇面図では、七重村(現七飯町)周辺の風景を漢詩「七重晴嵐」として詠んでいます。
 菅野は、箱館奉行の堀利煕が「誠終舎」と命名し、開設した庶民教育施設「心学講釈所」で孟子を講義しました。菅野は扇面図の侍の中で最初に江戸に帰ります。しかし、江戸には安政五年(一八五八年)から翌年にかけ、大老井伊直弼による政治弾圧「安政の大獄」の嵐が吹き荒れ、「国許永蟄居」の厳罰を受けたのです。
 扇面図の最後の一人、仙台藩出身の玉虫左太夫は、後の戊辰戦争の末に非業の死を遂げる侍です。漢詩「山背帰帆」では、山背泊(現函館漁港)の風景を詠んでいます。
 海湾縈曲擁牛山
 山上模糊雲半間
 尤愛漁村斜日景
 千颿一送捲波還
 「海は湾曲して臥牛山を抱き、山上はかすみ雲間に見え隠れする。何より素晴らしいのは山背泊漁村の夕暮れの風景。多くの船が一斉に波をけたてて港に戻ってくる」
 玉虫も、昌平坂学問所の塾長を務め、諸藩の大名まで教えた人物。安政四年(一八五七年)、堀の近習役として蝦夷地の探索に付き従いました。玉虫の紀行文「入北記」には、扇面図の侍をはじめ、島義勇、松浦武四郎、榎本武揚らと交友したことが記されています。
 万延元年(一八六〇年)一月、外国奉行を兼務していた堀の推挙で、日米修好通商条約批准書交換で米国に向かう使節団の一員に選ばれ、米国軍艦ポーハタン号で太平洋を渡ります。首都ワシントンで大統領ブキャナンに接見した後、アフリカ各地や香港に立ち寄りながら九ヵ月後に帰国。堀への報告書として世界一周の見聞記「航米日録」にまとめました。
 巡察参加も海外渡航も堀の後押しによるもの。堀は玉虫の才能を愛し、将来の活躍を期待していたことでしょう。
 時は流れ、大政奉還の後に江戸幕府は瓦解。戊辰戦争で薩摩藩、長州藩を中心とした新政府軍が北上する中、玉虫は東北、北陸の三十一藩による奥羽越列藩同盟の軍事局副頭取として戦い、敗れます。旧幕府軍の艦隊を率い「蝦夷共和国」建設を目指す同士、榎本武揚との合流を果たせず抗戦の首謀者として捕らえられました。
 そして玉虫は明治二年(一八六九年)四月、牢前切腹を命じられ、首を落とされます。親交の深かった福沢諭吉は「福翁自伝」で、政府の戦後処理について「久我大納言を勅使に下向させたが、あろうことかあるまいことか仙台藩士が生首を七つ持ってきた」と玉虫の最期の様子を描き、早過ぎる死を嘆きました。
 共に蝦夷地を巡察した榎本は明治政府に重用され、後に外務大臣、農商務大臣などを歴任します。もし、玉虫が戦禍を生き永らえ、蝦夷地に渡っていたら・・・。

と述べておられます。玉蟲は神陽の従弟・島義勇にも接触したことがわかります。
 巻頭で上げておられる菅野白華は、このブログ「枝吉神陽が会った人々2」で紹介しました。ブログの公開1日後にインタビューが掲載されているのは偶然です。もちろん私のは孫引きですからいっしょにしてはいけませんが……。山形先生のような方がこうした人物を丹念に調査しておられることに敬意を表します。



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