佐賀の出版元 出門堂 | 2008年10月09日
2008年10月09日
秋の展覧会
10月3日から唐津市にある佐賀県立名護屋城博物館で寄贈記念展「洪浩然 忍・忘れず」が開催されています。
この、「洪浩然」という人は小社発行の『佐賀読本』(金子信二著)にも登場しています。豊臣秀吉の朝鮮出兵で鍋島直茂らによって12、13歳で朝鮮から日本へ連れてこられた洪浩然ですが、その生涯のほとんどを佐賀で過ごしています。
洪浩然は、直茂の子の勝茂とともに育てられ、やがて京都で学ぶことを許され、佐賀藩の儒者となって多くの影響をのこしました。70歳のとき、洪浩然は帰国を願い出て、いったんは許されたのですが、洪浩然を惜しむ勝茂によって許可は取り消され、結局、浩然は帰国の念願を果たすことはできませんでした。
洪浩然の願いは叶わず日本で余生を送るのですが、共に育った勝茂が亡くなると自分も後を追って殉死してしまいます。
今度の展覧会では洪浩然の書も展示されており、「こぶ浩然」とよばれた、その印象的な書は書家の石川九楊氏が『蒼海副島種臣書』(二玄社)のなかで、明治時代の政治家であり、書家でもある副島種臣も影響をうけたのではないかと推測しています。
また、『早すぎた幕府御儒者の外交論古賀精里・侗庵』のなかで洪家の跡継ぎとして佐賀藩の儒学者、古賀精里の二男(洪晋城)を養子にむかえたとあります。この古賀精里の長男は幕末佐賀藩の改革の中心にいた古賀穀堂であり、三男は父親の精里とともに江戸の昌平坂学問所の教授となった古賀侗庵です。
この、「洪浩然」という人は小社発行の『佐賀読本』(金子信二著)にも登場しています。豊臣秀吉の朝鮮出兵で鍋島直茂らによって12、13歳で朝鮮から日本へ連れてこられた洪浩然ですが、その生涯のほとんどを佐賀で過ごしています。
洪浩然は、直茂の子の勝茂とともに育てられ、やがて京都で学ぶことを許され、佐賀藩の儒者となって多くの影響をのこしました。70歳のとき、洪浩然は帰国を願い出て、いったんは許されたのですが、洪浩然を惜しむ勝茂によって許可は取り消され、結局、浩然は帰国の念願を果たすことはできませんでした。
(『佐賀読本』より)
洪浩然の願いは叶わず日本で余生を送るのですが、共に育った勝茂が亡くなると自分も後を追って殉死してしまいます。
今度の展覧会では洪浩然の書も展示されており、「こぶ浩然」とよばれた、その印象的な書は書家の石川九楊氏が『蒼海副島種臣書』(二玄社)のなかで、明治時代の政治家であり、書家でもある副島種臣も影響をうけたのではないかと推測しています。
また、『早すぎた幕府御儒者の外交論古賀精里・侗庵』のなかで洪家の跡継ぎとして佐賀藩の儒学者、古賀精里の二男(洪晋城)を養子にむかえたとあります。この古賀精里の長男は幕末佐賀藩の改革の中心にいた古賀穀堂であり、三男は父親の精里とともに江戸の昌平坂学問所の教授となった古賀侗庵です。
(M)