佐賀の出版元 出門堂 | 2008年06月

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新の無いブログに表示されています。
新しい記事を書くことで広告が消せます。
 

Posted by さがファンブログ事務局 at
 

2008年06月26日

編集見習い日記-その7-

この仕事をするようになってから、他人が書いた手紙を読む機会が随分と増えました。著者の先生方や読者の皆様からいただく手紙、そして編集長からそうした方々に宛てる手紙などが主で、内容も形式もさまざまですがどれも味があり、書いた人の思いが手に取るように伝わってくるものばかりです。
私も書籍や書類を発送する際に手紙を書きますが、なかなか思うように書けず、もどかしい思いをすることがよくあります。簡単な用件を伝えるだけの手紙なのですが、そういうものほどかえって手間取ってしまい、その度に自分の言葉の引き出しがいかに少ないかということを実感させられます。

さて手紙といえば、平川祐弘著『米国大統領への手紙――市丸利之助伝』という本をご存じでしょうか? この本は、絶版となっていた新潮社版を増補改訂、出門堂のシリーズ「肥前佐賀文庫」の記念すべき第1冊目として2006年5月に刊行されました。

海軍航空部隊指揮官であった市丸利之助(唐津出身)は、硫黄島で玉砕する前に、時の米国大統領ルーズベルトへ宛てて日文・英文の遺書をのこしました。「ルーズベルトニ与フル書」と題されたその手紙は、激しい戦火をくぐり抜けていまも米国に現存しています。これほどまでに強い思いが込められた手紙を、私は今までに見たことがありません。

彼が遺した和歌約千首を収めた『市丸利之助歌集』とあわせて、ぜひご一読下さい。 


Posted by 出門堂 at 11:02 | Comments(0) | 編集見習い日記
 

2008年06月14日

物部神社

みやき町(旧北茂安町)板部の物部神社です。
いまは人気(ひとけ)もなくひっそりとした神社ですが、
金子信二『佐賀読本』では、『肥前国風土記』にある「物部経津主神」(もののべふつぬしのかみ)が祀られているといわれている神社です。

(X) 


Posted by 出門堂 at 14:00 | Comments(0) | 取材日記
 

2008年06月12日

麦秋

麦秋です。5月27日朝、佐賀県千代田町近辺の景色です。
スケールを枠に写しこむ技術がありませんが、掲載します。

(H) 


Posted by 出門堂 at 09:20 | Comments(0) | 取材日記
 

2008年06月06日

☆新刊のお知らせです☆

出門堂の待望のシリーズ「肥前佐賀文庫」の第3弾、
肥前佐賀文庫003 早すぎた幕府御儒者の外交論 古賀精里・侗庵
がまもなく発刊となります。
6月20日発行予定です。

古賀精里は佐賀藩校弘道館の初代校長となり、のちに昌平坂学問所(昌平黌)という幕府の学校の教授となる異例の経歴を辿りました。
息子の侗庵は父精里と共に佐賀から江戸に移り、同じく昌平黌の教授となりました。
親子二代で昌平黌の先生という例はほかにはなかったようです。

現在の学校の教科書にはページの隅に「(注)」でしか取り上げられていない精里・侗庵親子ですが、彼らが幕府の中枢にありながら、ペリーが浦賀にやって来る半世紀も前に進歩的で綿密な外交論を唱えていたことが本書には紹介されています。彼らの先進的な考え方が幕末の日本にどれだけ大きな影響をあたえたか、再認識されるべきだと思います。

巻頭には二人の書画など約40点をカラー掲載している贅沢な一冊です。
刊行までもうしばらくお待ち下さい。
(M)


 


Posted by 出門堂 at 18:00 | Comments(0) | 今日のおすすめ
 

2008年06月04日

野生の藤

佐賀県脊振町の藤の写真を紹介します。
5月のはじめに撮影したものです。

(X)
 
タグ :脊振町


Posted by 出門堂 at 16:00 | Comments(1) | 編集見習い日記
 

2008年06月02日

枝吉神陽が会った人々7 玉蟲拙斎

 弘化3年(1846)4月15日に枝吉神陽一行が玉蟲拙斎の家に泊まったことが『十文字家文書』にあるそうです。
 函館の山形道文先生(函館漢詩文化会会長)が北海道新聞に5回にわたるインタビュー構成で、堀利煕を中心に「堀奉行と箱館の侍たち」という記事が掲載され、その第4回目(2008年3月27日)に玉蟲拙斎について語っておられます。山形先生の了解を得て紹介いたします。

 箱館八景扇面図の侍はあと二人。姫路藩出身の菅野潔は、昌平坂学問所の塾長に抜てきされるほどの秀才で、蝦夷地の紀行文「北遊乗」を記しました。扇面図では、七重村(現七飯町)周辺の風景を漢詩「七重晴嵐」として詠んでいます。
 菅野は、箱館奉行の堀利煕が「誠終舎」と命名し、開設した庶民教育施設「心学講釈所」で孟子を講義しました。菅野は扇面図の侍の中で最初に江戸に帰ります。しかし、江戸には安政五年(一八五八年)から翌年にかけ、大老井伊直弼による政治弾圧「安政の大獄」の嵐が吹き荒れ、「国許永蟄居」の厳罰を受けたのです。
 扇面図の最後の一人、仙台藩出身の玉虫左太夫は、後の戊辰戦争の末に非業の死を遂げる侍です。漢詩「山背帰帆」では、山背泊(現函館漁港)の風景を詠んでいます。
 海湾縈曲擁牛山
 山上模糊雲半間
 尤愛漁村斜日景
 千颿一送捲波還
 「海は湾曲して臥牛山を抱き、山上はかすみ雲間に見え隠れする。何より素晴らしいのは山背泊漁村の夕暮れの風景。多くの船が一斉に波をけたてて港に戻ってくる」
 玉虫も、昌平坂学問所の塾長を務め、諸藩の大名まで教えた人物。安政四年(一八五七年)、堀の近習役として蝦夷地の探索に付き従いました。玉虫の紀行文「入北記」には、扇面図の侍をはじめ、島義勇、松浦武四郎、榎本武揚らと交友したことが記されています。
 万延元年(一八六〇年)一月、外国奉行を兼務していた堀の推挙で、日米修好通商条約批准書交換で米国に向かう使節団の一員に選ばれ、米国軍艦ポーハタン号で太平洋を渡ります。首都ワシントンで大統領ブキャナンに接見した後、アフリカ各地や香港に立ち寄りながら九ヵ月後に帰国。堀への報告書として世界一周の見聞記「航米日録」にまとめました。
 巡察参加も海外渡航も堀の後押しによるもの。堀は玉虫の才能を愛し、将来の活躍を期待していたことでしょう。
 時は流れ、大政奉還の後に江戸幕府は瓦解。戊辰戦争で薩摩藩、長州藩を中心とした新政府軍が北上する中、玉虫は東北、北陸の三十一藩による奥羽越列藩同盟の軍事局副頭取として戦い、敗れます。旧幕府軍の艦隊を率い「蝦夷共和国」建設を目指す同士、榎本武揚との合流を果たせず抗戦の首謀者として捕らえられました。
 そして玉虫は明治二年(一八六九年)四月、牢前切腹を命じられ、首を落とされます。親交の深かった福沢諭吉は「福翁自伝」で、政府の戦後処理について「久我大納言を勅使に下向させたが、あろうことかあるまいことか仙台藩士が生首を七つ持ってきた」と玉虫の最期の様子を描き、早過ぎる死を嘆きました。
 共に蝦夷地を巡察した榎本は明治政府に重用され、後に外務大臣、農商務大臣などを歴任します。もし、玉虫が戦禍を生き永らえ、蝦夷地に渡っていたら・・・。

と述べておられます。玉蟲は神陽の従弟・島義勇にも接触したことがわかります。
 巻頭で上げておられる菅野白華は、このブログ「枝吉神陽が会った人々2」で紹介しました。ブログの公開1日後にインタビューが掲載されているのは偶然です。もちろん私のは孫引きですからいっしょにしてはいけませんが……。山形先生のような方がこうした人物を丹念に調査しておられることに敬意を表します。