佐賀の出版元 出門堂 | 2008年10月
2008年10月11日
小松帯刀について
新聞広告で瀬野富吉『幻の宰相 小松帯刀伝』が宮帯出版社から復刊されたことを知りました。
この本はもともと昭和60年に発行されたもので、入手がむずかしい本でした。
私がこの本を知ったのは、今年亡くなった草森紳一氏から、「小松帯刀について書かれた本が出ているはずだが、手に入れ損ねている」と聞いたことからです。いろいろたどって瀬野氏のご遺族から上下2冊を2セット譲ってもらい、1セットを草森氏にお送りしました。
今回の復刊は、NHK大河ドラマによって小松帯刀に注目が集まったことによるだろうと思われます。しかし、この本の背後には、瀬野氏や小松帯刀顕彰会、大河ドラマとは無縁の郷土の人々の、おそらく多大なご苦労があったことを想像します。
序文の末尾で原口泉氏(鹿児島大学助教授〈当時〉)はこのように語っておられます。
重い言葉です。
さて、佐賀の版元である出門堂から紹介したい記事があります。小松帯刀という人物について大隈重信が語った言葉です。
長くなりましたが、大隈の個人的な見解ながら、小松帯刀という人物の魅力に触れたような気になり、すがすがしい気持ちになります。(X)
この本はもともと昭和60年に発行されたもので、入手がむずかしい本でした。
私がこの本を知ったのは、今年亡くなった草森紳一氏から、「小松帯刀について書かれた本が出ているはずだが、手に入れ損ねている」と聞いたことからです。いろいろたどって瀬野氏のご遺族から上下2冊を2セット譲ってもらい、1セットを草森氏にお送りしました。
今回の復刊は、NHK大河ドラマによって小松帯刀に注目が集まったことによるだろうと思われます。しかし、この本の背後には、瀬野氏や小松帯刀顕彰会、大河ドラマとは無縁の郷土の人々の、おそらく多大なご苦労があったことを想像します。
序文の末尾で原口泉氏(鹿児島大学助教授〈当時〉)はこのように語っておられます。
私達は、小松を育んだ薩摩の風土をあらためて見直すことから、将来への方向性を探っていなければならない。
重い言葉です。
さて、佐賀の版元である出門堂から紹介したい記事があります。小松帯刀という人物について大隈重信が語った言葉です。
小松はわたしたちの先輩であると共に友達でもあった。見かけは堂々として口も達者であり、少しは学識もあって、気性も卑屈ではなかった。その上薩摩藩の名家として、世間からは非常に信頼されていたから、外国の副知官事としては最も適任者であった。好事魔が多く、桂や蘭は折れ易いと云うことがある。不幸にも天は秀才に幸いせず、小松は副知官事に任じられる前から、腎臓病にかかり、職にあること数ヵ月で臥床した。内治、外交、国家の将来について、身体中に満ちあふれた素晴らしい計画を持ちながら、あきらめ切れぬ涙を呑んで死んでしまったのである。ああ、悲しいことではないか。そしてまた国家や国民の不幸でもないか。そうして彼のあとを継いだものは誰であったか。小松が推薦した人は誰であったか。思うに、その当時は薩摩と云い、長州といい、いずれも戦勝の余勢にのって、その権力は非常に盛んであった。従って政府の官吏や、地方の役人の中にも薩長の出身者が多かった。外交官だけが除けもの扱いにはされていなかった。寺島陶蔵(宗則)、町田民部(久成)、五代才助(友厚)は薩摩藩の人で外国官判事であった。長州藩の井上聞多(馨)、土佐藩の後藤象二郎(元曄)も同じ職であった。これらの人たちは、多くは小松の推薦でその地位を占めたもので、いずれもわたしの先輩であった。小松が腎臓病に罹ってもう一度起ち上がることが出来ないのを知って、その後任者を推薦しようとした時、これらの人たちから引き抜くのは、必ずしも私心や情実によるとは云えないだろう。ところが彼は終にこれらの人々を引き抜かず、この大隈重信を推薦しようとは、わたしも他人もみな予想外のことであった。
わたしは小松と古くから交わっていたものではない。維新の前後、わずか三、四回会っただけである。わたしは別にすぐれた外交上の学識や技能を持っているわけでもない。まして熟達した経験や、世に知られた功績を持つものでもない。もし有るとしたなら、横浜と江戸の間で、横須賀の回復や、軍艦兵器の受取りに走り歩き、また長崎の耶蘇教問題について談判に当たったなどで、いささか経験し、功績を得たにすぎなかった。ただこれだけであった。だからこれだけで、薩長の大変な権勢をしのぎ、先輩の人たちをさしおいて、直ちに小松の後をつぐ値打がどうしてあるだろうか。それなのに小松は他のものを差しおいてわたしを推薦し、当時の政府は、その忠実な意見をうけ入れて、小松の死後すぐにわたしを外国官の副知官事に任命するようになった。誰も意外だと思うたことだろう。今から考えて見ると、小松は事を処理する時に公平を旨としていた。公に対して一片の私心も挟まなかったのである。「同郷がなんだ、縁故がなんだ。藩の係り合いもどうでもよろしい。情実など取るに足りない、ただ才能があるものを用い、適任者を選ぶだけだ。」と。これが小松が公に処して人を採用する本心であった。当時世間の人たちが凡て私欲をあさり、私利に走る時、このような名士がいたのだから、人々はみなこれを尊敬したのである。国家の重席に連なり、重要な職務を行うたもので、小松のように公平無私の心を持って天下に臨み、政務をとったならば、官民の衝突は今のように激しくならず、かつ世の志士や道徳家が最も非難した、藩の関係やその情実による弊害は起こらず、維新の改革と、大業の進歩は一段と見るべきものがあり、明治維新の歴史は一層光を放ったであろう。惜しいかな、小松は早く逝いてそのあとを追うものがなく、藩閥とか情実とかいう汚らわしい言葉が潔白な世間の人たちの口から出て、已むを得ず時の政府を攻撃するようになったのである。
わたしがこう云うのは、小松が推薦してくれた恩に対して礼を云うための私情から出たものではない。本当に公平で私する心がないことが、ハッキリしているからである。歴史を読み、むかしを想い、ただ一すじにこれを思うごとに、限りない感慨が胸中を行き来するのである。
(『大隈伯昔日譚』早大出版部)
長くなりましたが、大隈の個人的な見解ながら、小松帯刀という人物の魅力に触れたような気になり、すがすがしい気持ちになります。(X)
2008年10月09日
秋の展覧会
10月3日から唐津市にある佐賀県立名護屋城博物館で寄贈記念展「洪浩然 忍・忘れず」が開催されています。
この、「洪浩然」という人は小社発行の『佐賀読本』(金子信二著)にも登場しています。豊臣秀吉の朝鮮出兵で鍋島直茂らによって12、13歳で朝鮮から日本へ連れてこられた洪浩然ですが、その生涯のほとんどを佐賀で過ごしています。
洪浩然は、直茂の子の勝茂とともに育てられ、やがて京都で学ぶことを許され、佐賀藩の儒者となって多くの影響をのこしました。70歳のとき、洪浩然は帰国を願い出て、いったんは許されたのですが、洪浩然を惜しむ勝茂によって許可は取り消され、結局、浩然は帰国の念願を果たすことはできませんでした。
洪浩然の願いは叶わず日本で余生を送るのですが、共に育った勝茂が亡くなると自分も後を追って殉死してしまいます。
今度の展覧会では洪浩然の書も展示されており、「こぶ浩然」とよばれた、その印象的な書は書家の石川九楊氏が『蒼海副島種臣書』(二玄社)のなかで、明治時代の政治家であり、書家でもある副島種臣も影響をうけたのではないかと推測しています。
また、『早すぎた幕府御儒者の外交論古賀精里・侗庵』のなかで洪家の跡継ぎとして佐賀藩の儒学者、古賀精里の二男(洪晋城)を養子にむかえたとあります。この古賀精里の長男は幕末佐賀藩の改革の中心にいた古賀穀堂であり、三男は父親の精里とともに江戸の昌平坂学問所の教授となった古賀侗庵です。
この、「洪浩然」という人は小社発行の『佐賀読本』(金子信二著)にも登場しています。豊臣秀吉の朝鮮出兵で鍋島直茂らによって12、13歳で朝鮮から日本へ連れてこられた洪浩然ですが、その生涯のほとんどを佐賀で過ごしています。
洪浩然は、直茂の子の勝茂とともに育てられ、やがて京都で学ぶことを許され、佐賀藩の儒者となって多くの影響をのこしました。70歳のとき、洪浩然は帰国を願い出て、いったんは許されたのですが、洪浩然を惜しむ勝茂によって許可は取り消され、結局、浩然は帰国の念願を果たすことはできませんでした。
(『佐賀読本』より)
洪浩然の願いは叶わず日本で余生を送るのですが、共に育った勝茂が亡くなると自分も後を追って殉死してしまいます。
今度の展覧会では洪浩然の書も展示されており、「こぶ浩然」とよばれた、その印象的な書は書家の石川九楊氏が『蒼海副島種臣書』(二玄社)のなかで、明治時代の政治家であり、書家でもある副島種臣も影響をうけたのではないかと推測しています。
また、『早すぎた幕府御儒者の外交論古賀精里・侗庵』のなかで洪家の跡継ぎとして佐賀藩の儒学者、古賀精里の二男(洪晋城)を養子にむかえたとあります。この古賀精里の長男は幕末佐賀藩の改革の中心にいた古賀穀堂であり、三男は父親の精里とともに江戸の昌平坂学問所の教授となった古賀侗庵です。
(M)