佐賀の出版元 出門堂

2008年12月08日

西郷隆盛と副島種臣

小松帯刀についての紹介が意外にも好評で、薩摩を中心とした幕末維新に対する関心の高さを感じます。そこで小松帯刀につづいて、西郷隆盛や大久保利通と佐賀についてのエピソードをひとつ紹介します。
以下は、副島種臣の西郷についての回想から。

初まりは説の合うこともあり、合わぬこともあっただろうがね。あの人の死に至る時、拙者に遺言をされたで。死ぬ三日前に西郷に仕えて居った、薩摩の岡部と云う者に、「最早や自分は討死をするから出で行け」と云うて、それを出さるる時に、「副島が支那から帰って逢えたならば、謹んで死するなかれ」と言われた。その趣意を考えるに重もに荒いことを最早するなと言われたと見ゆるて。それが最後の遺言であった。その岡部と鈴木某と二人連れで遺言を通じた。これは全く征韓の頃から外の朋友を離れ、拙者とは時々手紙の往復もし、それも人の往来位で、薩摩人の往来で、委托して物言うたことも沢山ある。その頃からその遺言を拙者の為めに発するに至られたと見ゆるて。およそ役人と云う者はどんな朋友でも、説の合う時と合わぬ時とあるものだ。その時はやはり争論をする。もっとも征韓論までは拙者は大久保とが一番懇意にあったようにある。ただ征韓の一条だけが、彼と見込の違ったと云うもので。そこで、役人の懇意は、あるいは討論、あるいは異論と云うことは往々ある。ある度毎に見解の衝突は言うまでもない話だ。
(島善高編『副島種臣全集2』慧文社より〔全体を新字新仮名づかいに、一部の漢字表記の接続詞を平仮名に修正して紹介しました)

大久保利通がさまざまな面で副島種臣を頼りにしたことは有名ですが、征韓論争以降は西郷と交遊が深かったことがわかる談話です。南洲墓地にある鹿児島改葬碑が副島の揮毫であることは、こうした副島と西郷隆盛(南洲)との関係によるものだと思われます。大久保と西郷、時期によりこの二人が頼りにしたのが副島種臣でした。
幕末維新に活躍したのは薩摩ばかりではありません。薩長土肥の肥前、つまり佐賀の視点から描かれた幕末維新のわかりやすいガイドとして、大変好評の一冊、福岡博著『佐賀の幕末維新 八賢伝』出門堂をぜひご一読ください。(X)



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