佐賀の出版元 出門堂

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Posted by さがファンブログ事務局 at

 

2008年04月05日

枝吉神陽が会った人々4 十文字栗軒

前々回からの諸国遊行のメンバーの一人、十文字栗軒は経歴が詳しくわかりません。
「涌谷町の文化財/涌谷伊達家歴代の邑主」
http://www.palette.furukawa.miyagi.jp/wakuya/bunzai.pdf
の中の⑮亘理胤元の項に、
……涌谷は十文字栗軒を中心として仙台藩の中でも勤王派として活躍した。……
とあるくらいしか、現在見つけられていません。
胤元によって甥の十文字秀雄とともに北海道に新天地を探索に遣わされたことが、
涌谷伊達家のHP
http://members.jcom.home.ne.jp/2131535101/datetanemoto.html
に記されています。
北海道立文書館編『十文字家文書』があるそうですが、未見です。
栗軒についてご存じの方ご教示下さい。

  


 

2008年04月02日

意外な発見!

昨年9月に出門堂より発行した『佐賀読本』は県内にとどまらず県外からも多くの反響の声がありました。佐賀県のさまざまなことがらを時系列を軸にからめとってまとめ、今までにありそうでなかった一冊。歴史だけでなく産業や文化などがどのように伝わってきたか、生まれたのかをわかりやすく、しかも総ルビの、ついでに言えばいろんな仕事のネタにも使えそうなすぐれものです!
(私事ながら、結婚式の引出物にもしてしまいました。これが好評でした~!)

昨年12月4日付けの朝日新聞佐賀版にも記事が掲載されました。
――今年9月に出版したところ、佐賀市内の書店売り上げランキングで、6週にわたってベスト10入りするなど評判になっている。県も職員の研修でテキストに活用することを検討している。……8世紀に編集された肥前国風土記について解説した章では、佐賀と呼ばれるようになった言い伝えを紹介。地名の由来には、思わず「ほー」とうなずかされてしまう。また、徐福渡来伝説や葉隠など佐賀にゆかりのあるキーワードも解説。佐賀の温泉やお菓子も取りあげている。――
と紹介されています。

編集に携わった私も長年佐賀に住んでいるのに知らないことばかりで、新たな佐賀の魅力にひかれています。
この春、新社会人となる方々も『佐賀読本』で意外な発見があるかもしれませんよ。


そして……先週末、草森紳一さん(評論家)の訃報がとびこんできました。
草森さんは出門堂での出版の予定もたくさんあったのですが、わが編集長は仕事をこえてやりとりしており、草森さんにぞっこんでした。この報せを受けてからは日を追うごとにため息をくりかえしています。
心よりご冥福をお祈りします。
  


Posted by 出門堂 at 15:15 | Comments(0) | 今日のひとこと

 

2008年03月31日

枝吉神陽が会った人々3 藤森弘庵

前回同様に『枝吉神陽先生遺稿』をたよりに神陽の交友を追うと、弘化3年(1846)3月、土浦藩の藩校郁文館の客分になり、藤森弘庵と詩文の応酬をしていることが記されています。
郁文館は、寛政11(1799)年に土浦藩の藩校として創設され、当時は藤森をはじめ教授陣が充実し、全国でも著名であったようです。
藤森弘安は、明治にむけて多くの人物を育てた功績は大きいといえるでしょう。明徳出版社からは『梁川星巌・藤森弘庵』として伝記も出ています。
神陽の出身である肥前佐賀藩の関わりでいえば、藤森は古賀穀堂(第1回の古賀侗庵の兄で、鍋島直正の師傅)や古賀侗庵に師事したということもあり、神陽とのあいだには共通の話題も少なくなかったろうと思われます。25歳の神陽は、藤田東湖らとならんで名を馳せていた藤森弘庵(47歳)と詩を交わす機会を得たのです。
神陽にむけた藤森の詩を、『枝吉神陽先生遺稿』から紹介します。

明月投窮巷。光輝生茅茨。諸君海内俊。文彩擅英奇。
湖海元龍気。兼以絶世姿。晤言起慵懦。傾蓋獲心知。
相逢如昨日。又此告別離。雄藩星宿分。各在天一陲。
男児四方志。再会非難期。会期雖非難。亦抱別離悲。
今日分手後。慵懦誰能医。
  奉送別枝吉十文字安藤木村諸先生。
                藤森連再拝。




  


 

2008年03月28日

編集見習い日記-その3-

A子です。

先日、小城市にある中林梧竹記念館へ行ってきました。こぢんまりとした、大変シンプルな展示室ではありますが、一歩足を踏み入れると、そこには独特の、やさしく穏やかな空気が流れています。中林梧竹という人の人柄を肌に感じながら、作品をゆっくりと眺めることができます。

小学生のときに近所の書道教室に通い始めてから中学生まで、いわゆる「お習字」の経験はあるものの、「書」というもののなんたるか、まったく理解しておりません。ましてや他人の作品を見て分析をするほどの知識は皆無なのですが、ひとつ、見ていてはっとした作品がありました。

みなさんもよくご存知の「いろはにほへと」で始まる歌を書いたものですが、一目見ただけではあまり美しい字には見えません。ですが、それが展示されていた作品の中で私が最も心惹かれたものでありました。前に立ってぼんやりと眺めていたときに、ひと文字ひと文字がしだいに浮き上がって、そこからあぶり出しのように、原型となった漢字の姿が見えてきたのです。たとえば、「た」という字は「太」、「な」という字は「奈」といった具合です。ごくごく当たり前のことなのでしょうが、まるで数学の公式を見つけたかような、大発見をした気持ちになりました。

この出門堂で働いていなければ、「書」にたいしてそれほど興味を持つこともなく、おそらくこの先もずっと、こういったものの見え方はしなかったのではなかろうかと思います。編集見習いとなって約10ヶ月が経ちますが、最近になって少しずつ、この仕事の面白さを実感するようになってきました。

上記の作品は、出門堂が制作を担当しました「桜雲洞収蔵 中林梧竹書画」にも収録されていますので、ぜひご覧下さい。  
タグ :中林梧竹


Posted by 出門堂 at 12:51 | Comments(0) | 編集見習い日記

 

2008年03月26日

枝吉神陽が会った人々2 菅野白華

『枝吉神陽先生遺稿』楠神社・枝吉神陽関係年譜(江頭慶宣氏作成)には、神陽が弘化3年(1846)3月9日に鎌倉・水戸・房総・奥羽・越後など諸国へ向けて旅に出たことが記されています。そのときに同行したメンバーの一人に、菅野白華がいます。
 菅野白華については、『「昌平黌」物語』(斯文会、1973)によると、

  白華、名は潔、字は聖與、狷介と称した。播磨の人、昌平黌に入り、業を古賀侗庵に受け、姫路藩に仕え、江戸藩邸の教授に補せられたが、安政戊午の大獄に嫌疑を以て下獄し、ついで姫路に拘せられた。文久三年赦にあい好古堂の副督学に補せられた。明治三年三月八日歿、年五十一。

とあります。神陽と同じく古賀侗庵の門人ということです。『枝吉神陽先生遺稿』には、己酉(1849年)に江戸を去る神陽の送別として送った菅野白華の詩が収められています。日本各地から江戸へ留学した秀才たちの交友があったことがうかがえます。

萬里江関隔月帰。知君長鋏有餘煇。西溟他日屠鯨手。且向江湖試一揮。
  己酉春。送世徳枝吉大兄帰火国。賦之叙別。兄帰途将游上国。潔。菅野氏白華。

  


 

2008年03月24日

編集見習い日記-その2-

こんにちは、A子です。
ここ出門堂では、毎日たくさんの話をします。歴史のことであったり、今朝の新聞記事についてであったり、あるいは昨晩観たお笑い番組のことであったり、その内容は実にさまざまですが、小さな出来事でもそこから何かを読み取り、議論を膨らませていくのが我らが編集長の得意とするところです。
私が特に気に入っているのは、文字や言葉についての話です。先日、お客様と私の電話でのやり取りを聞いていた編集長から、「きみはよく『さようでございます』って言うよね」との指摘を受けました。確かに、私はよくお客様に対して「さようでございます」という言い方をします。なんだかサムライのようですが、そもそもこの「さよう」とは、どういう意味を持つのでしょうか。

参考までに、『新明解 国語辞典』第四版(三省堂)により、以下に要点をまとめてみました。

さよう【然様】
一、「その通り・そのよう」の意の丁寧語。
二、相手の言った事や自分の思い出した事を肯定する気持を表わす。「そうです」の老人語。「左様」とも書く。


また、『新潮国語辞典』第二版(新潮社)には、

さヨウ【左様・然様】(「左」はあて字)
一、そのとおり。そう。
二、相手のことばを肯定したり、なにか思いあたったりした時にいうことば。そう。そうだ。

とあります。現在使っている「さようなら」も、「それでは、また逢う日までお元気に」という意味で、やはり「然様(さよう)」という言葉からきているようです。

こうして言葉のもとを辿り、その言葉ができた背景や歴史に触れてみると、これまであまり意識することもなく使っていた言葉が、少し違った響きを帯びて聞こえてきます。人と会話をしたり、頭の中でものを考えたり、私たちは毎日何かしら「言葉」に関わって生活しています。めまぐるしく変わっていく現代社会の中で、言葉も変化を余儀なくされることがあると思います。けれども、毎日使うものだからこそ、時には少し立ち止まって、「言葉」というものにじっくり向き合ってみることも必要なのかなと思った一日でした。  


Posted by 出門堂 at 11:28 | Comments(0) | 編集見習い日記

 

2008年03月19日

枝吉神陽が会った人々1 古賀侗庵

枝吉神陽が会った人々


枝吉神陽は幕末佐賀藩勤王運動の首魁です。神陽と出会った当時の名士たちは、現在かならずしも著名ではありません。しかし、顕彰されるに足りない人物たちかといえば、まったくそうではありません。
まずは、枝吉神陽が天保15年9月10日に昌平坂学問書書生寮に入寮したころ以降の交友の痕跡を小社刊『枝吉神陽先生遺稿』(龍造寺八幡宮楠神社編)を参考に追ってみます。
まず、第1番目は、古賀侗庵です。
「丁未九日」という神陽の詩の注に、「甲辰重陽。陪侗庵先生。牟田口先生。于桜田藩邸。……」とあります。甲辰つまり天保15年(1884)の重陽(9月9日)に古賀侗庵にしたがって桜田藩邸を訪れているということです。神陽23歳、古賀侗庵はこのとき57歳です。
 『佐賀県歴史人名事典』(洋学堂書店、1993復刻)によると、

名は煜、通称は小太郎、侗菴と号す。古賀精里の第三子なり。天明八年を以て生る。寛政年間父精里選ばれて幕府に仕ふるや、之に従って江戸に赴く。刻苦勉励学大に揚る。文化六年擢んでられて儒官となり、父子駢番同じく学政を董す。世以て異数となす。弘化四年病を以て終る。享年六十。

とあります。古賀精里ですら現在知る人が少ないのは残念です。さらに知られていない侗庵は、さまざまな面で父精里を遥かに凌ぐ江戸時代を代表する知識人で、幕末維新を考える上で、もっと注目される必要がある人物だと思います。ペリーが来航する半世紀も前に幕府の中枢で開国論をとなえたことも、この父子の注目すべき点です。詳しくは、この春小社より刊行予定の肥前佐賀文庫003をお待ちください。

  


 

2008年03月17日

編集見習い日記-その1-

はじめまして、編集見習いのA子です。

全く縁がないと思っていたこの土地にひょんな事から越して来たのが一年前。何とか働き口を見つけたものの、この仕事の大変なこと。悪戦苦闘の連続ですが、編集修業の毎日の中で見聞きしたこと、考えたこと、感じたことをお伝えしていきたいと思います。

さて、私が佐賀に来て最初に思ったことの一つに、「『はがくれ』とはなんぞや」ということがあります。街のいたる所に「はがくれ」の文字を見るものの、それが何を意味するのか皆目見当がつかず、まるで外国にでも来たかのような感覚を覚えました。それが、ここ「出門堂」に入門してから、ははー、なるほど!と思いました。

ちょうどその頃、『老いと死の超克―わが葉隠』という本が出門堂から刊行されたのですが、この時に初めて「はがくれ」=「は」+「がくれ」=「葉」+「隠」だと知ったのです。

そんな状態ですから、佐賀の郷土本を出している出門堂の編集者が果たして務まるのかと不安になられる方もおられるでしょうが、私これから一所懸命やって参ります。どうか今後ともよろしくお付き合い下さいませ。  
タグ :葉隠


Posted by 出門堂 at 13:00 | Comments(0) | 編集見習い日記

 

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